第3回

外国映画を見ない若い世代の意識

 映画関係ではない友人から、ときどき「お薦めの映画、何か面白いの、ありますか?」と訊かれる。先日もそう訊かれて「HELP/復讐島」(1月30日公開)、「ランニング・マン」(1月30日公開)、「ブゴニア」(2月13日公開)がいいのではと答えた。翌日、友人から「やってるとこない」とLINEが来た。調べてみると、都内では「HELP/復讐島」、「ランニング・マン」日本中どこでもやってない、「ブゴニア」はまだ都内がいくつかやっていた。この原稿を書いているのは3月11日なのだがこの状態である。かつては、飯田橋のギンレイホールなどでロードショウから数ヶ月後に上映する、いわゆる名画座があったが、最近は名画座もほぼ絶滅してしまった。

 3月6日(金曜)から8日(日曜)までの興収ベスト・テンを見ると、ランク・インしている外国映画は「ウィキッド 永遠の約束」と「ズートピア2」の2本のみ。「ウィキッド〜」も普通の実写とはちょっと違い、いわゆる普通の実写はない。2月から公開された外国映画の以下のような話題作、注目作「センチメンタル・バリュー」(2月20日)、「おさるのベン」 (2月20日)、「レンタル・ファミリー」(2月27日)、「嵐が丘」(2月27日)、「しあわせな選択」(3月6日 )、「ナースコール」(3月6日)などはランクに入っていない。一方、Netflixで1月22日から配信されている「超かぐや姫!」が10位に入っている。何と、これは劇場公開が2次利用なるのか!  まあ、最近は毎週、こんな調子である。

 それにしても、サム・ライミ監督、エドガー・ライト監督、ヨルゴス・ランティモス監督という話題の監督作品なのにあまり話題になっていない。

 私は2007年から2021年まで、2つの大学の映像系学部で教員をやっていたこともあり、今でも映画に関心のある若い人たちと接する機会は多い。ここ1週間くらいの間に、2つの学生グループと会うことがあって、そこで私は、前記した3作品を見たか訊いてみると、誰も見ていなかった。私は「“サム・ライミ、エドガー・ライト、ヨルゴス・ランティモスといった監督の作品を見る自分はカッコいい”とはおもわないの?」と訊いたら、「何それッ!」と言われた。「他人(ヒト)の見てない映画は見ない。そういう映画を見てインスタにあげると、面倒くさい人に思われる」そうだ。

 その真逆に、みんなが見ている映画を見ないと仲間の会話から浮いてしまうという意識が働く。そこで選ばれるのが、日本のアニメであり、コミックやドラマ、ゲームを映画化した作品になる。全世界の観客を対象にした大味なハリウッド超大作より、日本人に特化したきめ細かい世界が若い観客の心を捉える。

 ジャン=リュック・ゴダール監督の「パッション」(1981/日本公開1983年11月19日、シネ・ヴィヴァン六本木オープニング作品/フランス映画社配給)が公開されたとき、私は宣伝を手伝っていたこともあって、何度も劇場に足を運んでいた。映画は、ゴダール・ファンはもとより、大学生も多く詰めかけかなりのヒットとなった。上映後のロビーで、女子大生らしきグループに「面白かった?」と訊くと、「よく分からない」と照れくさそうに笑って答えた。当時はミニ・シアター・ブームということもあって、多くの大学生は、分からないもの、難解なものを理解しようとして背伸びしていた。また、1980年代はBunkamuraル・シネマ、シネマライズ渋谷、シネセゾン渋谷などで映画を見る行為がカッコいいとされていた。

 そんな昔ではない2015年、私は紀尾井町にある大学で教員をしていた。「SEALDs(シールズ)」という大学生のグループが毎週金曜日、国会正門前で安保関連法案への抗議活動を行なっていた。私の勤務する大学から近かったこともあり、見に行ったのだが、驚くほど多くの学生が詰めかけていた。

 ゴダールの映画やSEALDsの活動について、理解が不足している学生たちは、とにかく近づいていこうという意欲があったと思う。私の個人的な印象、違和感なのだが、コロナ禍を経て、大学生、若い世代の意識は大きく変わってしまったと感じる。そこで、私的にその変化についての印象をまとめてみた。

同調圧力の内面化と知的好奇心の減少

 コロナ禍以降、若い世代の知的好奇心の低下や挑戦意欲の減退を感じるようになった。私の周辺の知人(50代以上)と話すと、それは世代の「劣化」と語られることも多い。しかし、そうした理解は表層的で、現象の本質にはいろいろな理由があるのではと私は思う。個人、個人の資質ではなく、個人を取り巻く環境の構造的変化ではないかと。

 前記したように、1980年代の若者は難解なものに挑戦して「背伸び」しようとしていた。例えば、1985年創刊された季刊の映画雑誌『リュミエール』(蓮實重彦=責任編集/筑摩書房)をむさぼり読んで、そこに書いてあることを鵜呑みにして、ハリウッドの古典、ヌーヴェルヴァーグからヴェンダースの作品を追いかけ、中途半端な理解でも必死に語ろうとしていた。そのような挑戦は、理解そのもの以上に「理解しようとする姿勢」を同世代の仲間で共有する文化的行為であった。また、同世代の仲間だけでなく、上の世代も、そういう姿勢を許容する空間があった。ところが、現在は、その許容する空間がほとんどなくなった。

 まず、自身や他者を可視化して評価するようになった。Twitter(現X)やInstagram、TikTokといったSNSでは、個人の発言は即座に拡散され、数値化される。「いいね」の数やフォロワー数が評価指標として機能することで、背伸びした不十分な理解や曖昧な発言は「ダサい、ウザい」として扱われ、可視的に数値化される。たとえば、難解な映画について未熟で稚拙な感想を述べれば、年長者からは「浅い」、同世代からは「面倒臭い奴」といった反応が返ってくる可能性がある。この環境において、「わからないが挑戦する」という姿勢は、かつてよりもはるかに高い危険を伴う。

 次に、同調圧力の性質が変化した。大学では、以前は、ゼミやサークルで多少浮いた発言をしても、それは「変わった奴」として半ば許容されていた。しかし現在では、LINEグループや非公開のSNS空間において、その「浮き」は即座に拡散され、距離を置かれる理由になる。特定の学生が難解なテーマに関心を示したり、周囲と異なる価値観を表明したりすると、「意識高い」「面倒くさい」というラベルが貼られ、漠然と無視されるような排除が起こる。重要なのは、この圧力が誰かによって明示的に強制されるのではなく、あらかじめ内面化されている点にある。結果として、多くの学生は逸脱(周囲から浮いてしまう)の可能性に強い恐怖を感じ、自ら回避するようになる。この漠然とした同調圧力が自制心を強化してしまう。

 そして、社会全体の閉塞感が挑戦のインセンティブを低下させている。例えば若いサラリーマンにはNISA貧乏と言われる人たちが増えているという。資格を取るために自身に投資するとか何かに挑戦するより、老後の安定のためにNISAに投資している。映画を見るということにも、それは通じている。かつては海外の作家性の強い作品に対して積極的に向き合う層が存在したが、現在では仲間と共感を共有できない作品を見ることはコスパ、タイパが悪く、敬遠される。長時間で複雑な物語を持つ作品よりも、短時間で理解可能なコンテンツが好まれる傾向は、NetflixやYouTubeの普及とも無関係ではない。アルゴリズムは「すでに好まれているもの」を強化し、未知の領域への接触を減少させる方向に働く。

 これらの要因が重なって、若い世代の間に、ある種の合理的な生き方が成立したのではないか。すなわち、「目立たず、外さず、波風を立てない」ことが最適戦略となる。ここでは知的好奇心もリスクとして扱われうる。海外のアート系映画や政治を語れば、集団からの逸脱のリスクがあり、「面倒臭い人間」として認識されるからだ。オタクとして開き直る生き方もあるが、普通の若い人は、無難な集団に属することを最優先する。

 重要なのは、これが「劣化」したということではない点である。むしろ現在の若者は、与えられた環境に対して極めて適応的に振る舞っている。その適応の帰結として、挑戦や探究が抑制されているにすぎない。問題の核心は、挑戦や逸脱を許容しない社会の構造にある。

 しかし、このような構造が社会全般に固定化しているわけではない。たとえば、匿名掲示板やクローズドなコミュニティでは、依然として過激な議論や実験的な表現が生まれている。また、インディペンデント映画や自主映画の領域では、商業的成功とは無関係に強い個性を持つ作品が継続的に生み出されている。そこでは「背伸び」が可能になる。しかし、残念ながら、この層に属する人たちはマイナーな存在で、絶滅危惧種と呼ばれ、社会的な影響力も弱まっている。

 もしこの状況を変えるとすれば、それは個人の意識改革ではなく、「背伸びが許容される空間」をどのように再構築するかという問題として考えられるべきだろう。挑戦が合理的に選択されうる環境がなければ、好奇心は表面に現れない。

 とはいえ、若い世代が、外国映画を見なくなったというのを変えることは容易なことではない。外国映画にとどまらず、洋楽、翻訳小説といった分野でも、外国離れが進んでいると聞く。

 また、前記したように、NISA貧乏という若い世代が出現する日本の現在の社会環境も考慮すべきであろう。少子高齢化が加速する社会、先行きは不透明な日本経済、有名企業に就職しない限り結婚もままならい。日本人の低いパスポート保有率(全世代の保有率: 約17%〜18% /2025-2026年時点、20代の保有率は2026年時点で約25%〜35%とのデータがある。)、留学を希望する学生は減少している。そして、インターネットの普及によって、グローバリズムで混乱する海外の状況が伝えられる。まだまだ安全な日本にいて、わざわざ危険な外国に出て行く必要があるのかと考える。こんな中で海外に出て、複数の言語を操り、グローバル対応可能な少数の若者と、国内志向の多数の若者の2極化が進んでいる。

 こう考えると、外国映画の観客数を増やすことは簡単なことではないと思う。その結果として、ユニヴァーサル、パラマウントに続いてワーナー・ブラザースも日本から撤退するのも理解できる。

 話しは変わるが〜〜〜

 今、日本のIP(アニメ、コミック、小説、ゲーム、実写映画、J―POPなど)の国際展開を民間企業と国が連携して積極的に進めようとしている。IPを海外に売り出すには、相手の文化を知らなければならない。

 日本の小説、柚月麻子の『BUTTER』、王谷晶の『ババヤガの夜』が英米でベストセラー入りした背景には、文化庁の翻訳助成事業があると言われている。日本文学の海外での成功は翻訳家の手腕に依るところが大きく、『BUTTER』のポリー・バートン氏や『ババヤガの夜』のサム・ベット氏といった翻訳家の存在が大きく、2人はこの助成を受けたことが役立ったという。2人の英国人翻訳家を育てたが、この背後には多くの日本人が関わっている。私は、日本の小説が海外で広く受け入れられるのなら、実写映画も可能性があると考えられる。実写映画も映画祭では高い評価をうけているが、街の映画館ではほとんど上映されていない。日本の翻訳小説は書店に置かれ、何十万部のベストセラーになっているのだから、実写映画も不可能ではないと思う。そのためにも、実写日本映画の海外進出で活躍できる人材を育成することが重要である。