北九州が「映画の街」と言われるようになったのは、ここ10年15年ほど。その立役者の一人となったのが、北九州フィルム・コミッションの事務局次長・上田さんだ。「シビックプライドの醸成をしていこう、この事業で」と、市中での爆破シーンや空港でのハイジャックシーンなど、それまで日本でなかなか実現できなかった大規模撮影に挑戦してきた上田さん。有名俳優から「北九州が撮影を支援をしてくれたから成功した」と言ってもらえるたびに、ロケに対する市民の気持ちも上向き、街への想いを強めていく。小倉昭和館が、映画館を舞台に「映画の街」を盛り上げてきたとすれば、上田さん率いる北九州フィルム・コミッションは、北九州市すべてを舞台に「映画の街」を作り上げてきた。
今回は「やっぱり映画って、最後に観て、初めて完結するんだな」と語る上田さんに、北九州市から見た「小倉昭和館」について話を伺った。
北九州市が映画の街と言われるまで
「俺達がやっている仕事は、アメリカではフィルムコミッションと呼ばれているらしい。だったら、イメージアップ班よりフィルムコミッションの方がカッコいいよね」。
“フィルムコミッション”という言葉は、2000年にアメリカから入ってきた。北九州市は早くからフィルムコミッションの価値を見出し、1989年より“北九州市広報室イメージアップ班”という名で、それまで映画やドラマのロケを誘致、協力してきた。最も伝統のあるフィルムコミッションと言っても過言ではない。
とはいえ、北九州市を「映画の街」と呼ぶようになったのは、ここ10年15年くらいの話である。一般的にフィルムコミッションをやる動機となるのは、ロケ地訪問による観光誘致。ロケ地訪問をすることがあまりメジャーではない日本において、ロケツーリズムで北九州市を盛り上げるのは、星を掴むような話に思えた。
そこで、「シビックプライドの醸成をしていこう、この事業で」と考えた。つまり、この街で生まれて良かった、この街で過ごして良かったと思ってもらえることを目指したのだ。
「映画って50人とか100人とか集まって作っているじゃないですかその集団って一種異様で、そこにぎゅっと集まって一つのものを目指している。それは傍から見るとお祭りみたいなんです」。その光景を通勤途中に見た市民が「撮影をやっている、楽しそう」と思う。会社で「今日撮影をやっていたよ」と話が盛り上がる。帰りにもう一度通って「まだやっている!あ、あの人が来ている!」と車を停めてみる。家に帰って、夕食時間に家族にその話をする。
「その1日って何のお金もかけずに、自分のいつもの暮らしの中に非現実とか非日常が突然現れる。それがいろんなところで年間ずっとやっていると、みんな毎日ワクワクできるんじゃないかと考えています」。自分の街を好きになるというのは、その街での暮らしが豊かで、日々の楽しみがないと、なかなか言えないことだろう。行政でそういったことを提供するのは簡単なことではない。だからこそ、このお祭りみたいな光景を提供できるのは、大きな意義があると思っている。
また、「今回の撮影は北九州があったから成功した」「北九州市の皆さんが協力してくださった」など、有名な俳優がテレビで話してくれると、「あれ、うちの街そんなに頑張ったの」と誇らしい気持ちが芽生えてくる。スターから褒めてもらえるというのは、街のPRとしても大きいし、その街に住む人々にとってもモチベーションが上がる。
そういったことを積み重ねていって、さらにもっとハードなシーンの依頼が来た時に「よし、じゃあここはひと肌脱いで応援してやろうやないか」と思う市民が一人ずつ増えていく。そうやって“映画の街・北九州”になっていったのだ。
北九州市から見た、小倉昭和館の存在
「映画館に行くことが楽しかったあの頃の興奮、みたいなものが小倉昭和館にはあるような気がします」と上田さんはいう。
シネコンに行けば、最新の機材で臨場感を持って作品が見られるが、小倉昭和館では、そこにしかない雰囲気の中で映画を見ることができる。そこに入るだけで、その瞬間、映画の世界に入ったような、そんな空気感を感じられる場所だった。
映画の街として、またその文化を大切にしている街として、いわゆるシネコンではない映画館があるということは、街の誇りでもあった。東京のいわゆる名画座と呼ばれる映画館ですら経営が立ち行かなくなっていく中、人口が92万の地方都市に、シネコンではない単館の映画館がある。それをみんなが観に行くことで支えている。それは「映画の街・北九州」の誇りであり、フィルムコミッションの上田さんらにとっても、とても意義のあるものだった。
「何せ古いんですよね。歩くと床が軋んで、ミシミシと音を立てる。そんな場所が今、皆さんの生活の中にあるかというと、なかなか無いと思うんです。昭和の時代がそのまま残ったような場所に入ることで、まず一つテンションが上がって『あ、映画館に来たんだ』という風に体が思える。『よし、映画の世界に入ろう』という風に、スイッチが入りやすい。あえて演出しているわけではないのに、非現実や非日常を味わえるからグッとくるんです」。
映画好きな上田さんにとっても、小倉昭和館はまた特別な場所だったのだ。
コロナ禍で痛感したエンターテイメントの大切さ
上田さんが小倉昭和館への思い入れを一層強めたのは、コロナ禍でエンターテイメントの大切さを再認識したときだ。映画館を閉めざるを得なくなったときに「この街にとって、小倉昭和館って大事なんだな」と痛感したという。
映画館を閉めるということは、“映画の街“を自認している北九州市において、もっと大きな意味になるのではないかとも感じていた。
「この映画館が無くなるようじゃ、映画の街って何なんだろうな。映画撮影を支援することで、僕らは映画の街になってきた。その街のにぎわいとか、人生の潤いみたいなものを提供し続けてこれたと思っていたんですけれども、やっぱり映画って最後に観て初めて完結するんだなと。映画を観るということの素晴らしさとか、そういったものをもう一度僕らは見直しながら、映画の街・北九州ならではの映画館とのお付き合いの仕方ってあるのではないだろうか」と考え始めたのだ。
当時テレビも再放送ばかりで、エンターテイメントが枯渇していた。若い世代は、YouTubeなどでいろんなコンテンツを見て楽しむことができるが、小倉昭和館に通っていたような世代の方々は、上手に使える方のほうが少ない。そこで、YouTubeにあまり馴染みのなかった人たちに、コロナ禍でも自宅でYouTubeを楽しんでもらう企画を考えた。
「俳優・光石研さんらにご出演いただいて、コロナ禍の過ごし方とかそういったもの動画に撮ったんです。映画が観たくても見られない中高年の皆さんに向けてね。光石さんがコロナ禍をどうお過ごしで、どんな映画がお勧めで、というのをやったんだ」。
撮った動画は小倉昭和館のスクリーンに映し、YouTubeで配信した。撮影した
『STAY HOME』シリーズのYouTube総再生数は10万回を超えている。行政発信の動画の中では異例の数字である。
さらに、その後あまりにも長く続くコロナ禍で「これもいいけど、やっぱり映画館っていいよね」「やっぱり映画館に行きたい」と思ってもらえるような動画を作りたいと思った。1話2分くらいの短編ドラマだ。ここでも光石研さんが力を貸してくれた。作っている間にプロデューサーも含めて「これ絶対短編映画にした方がいいよね」という話になった。それで作られたのが『映画の街・北九州』だ。
旦過市場での撮影には、地元の人たちも集まってきた。コロナ禍でずっとやっていなかった撮影が「ああ、やっと始まったんだ」というような雰囲気になった。
「ちょっとほっとしたような、日常が少しずつ戻ってきたという風に感じてくださっている人達が多かったので、それだけやっぱり映画の街・北九州って撮影が日常だったんだな、って僕も再認識できました」。
小倉昭和館は、日本一敷居が低い映画館
上田さんは、小倉昭和館の活性化について「樋口さんの存在が全てだと思う」と話す。樋口さんだからこそ、彼女を支えようとするお客様や、映画業界の方々がいて、経営を繋いでこられたのではないだろうか。
樋口さんは「映画をかけておけばいいでしょう」という風に大上段に構える人ではなかった。何とか映画館に行くきっかけや楽しみを増やすことで、また映画を観てもらうことにも繋がるだろうという風に思って取り組む人である。
様々なイベントを企画し、映画に付加価値を用意して、「ぜひ映画館に観に来てほしい」と強く思っていた。「映画館に来て観てくれさえすれば、映画の素晴らしさっていうのは伝わるはずだ」と信じてやってきたのだ。
昭和館は、他の映画館よりも街や人を巻き込むのが上手いのだ。どこの映画館も名物の館主がいて、頑張っている。樋口さんは「単館の映画館って文化人っぽい人じゃないと…」といった空気感が全くない。映画好きやアートシネマ好きでなくても、入りやすい映画館だった。アート系の映画も上映し、寅さんも上映する。「日本一敷居が低い映画館だなと思います。何ていうんですかね。樋口さんの家に遊びに行く、みたいな感覚に近いんだと思います」と上田さんはいう。
そんな小倉昭和館が、2022年8月に旦過市場の火事で焼失した。「行けばないんですけど、なくてもあるような感じがするんです。なんて言ったらいいのかな。なくなるわけがない、と思っているものがなくなった時ってこうなるんだな、というか。多分、あの映画館に一度行ったことがある人は、そういう感覚に見舞われる日もあるんじゃないかなと思います。やっぱりあそこにしかない空気感があったからなんでしょうね」。
上田さんは、福岡の野球チームにいる選手の言葉を借りて話を付け足した。
「シーズンオフに、地元テレビ局がその選手の小さな旅を特集するんです。去年は、その舞台が旦過市場だったんですね。小倉と旦過を歩いていって声援を受ける、みたいな感じの番組をやっていて。今年、その番組のロケ地がなぜか沖縄だったんです。唐突に沖縄だなと思っていたら、旦過市場の火災があって、その旦過の皆さんの思いとか悔しさとか、そういったものを一番理解してくれるのは沖縄の皆さんじゃないだろうかという感じで。首里城を火事で失った沖縄の人たちが、旦過市場のことを一番わかってくださるんじゃないだろうか、みたいなことをおっしゃっていた。それで沖縄を旅の場所に選んだようで、町の大事なものを失うって、重要文化財を失うよりも、もしかしたらもっと身近なものがなくなった感じがあるのかな。ああそうだな…ってその選手の話を聞きながら、僕もぼんやりと思ったんです」。
北九州市にとって、小倉昭和館はやはり重要なシンボルであった。「僕らが映画の街・北九州って叫んでいなければ、小倉昭和館は一つの文化施設だったのかもしれない。僕らはこれまで映画の街、映画文化で、みんなの生活が少しずつ豊かになっていったり、自分の町を好きになっていったり、そういうことをこの数十年やってきた。そんな僕らの街に昭和館はあって当然のものだったから、この喪失感たるや、本当に想像もできないぐらい大きいんです」。
「映画館経営なんていうのはどこも大変ですし、小倉昭和館が再建しても、これからもきっと大変だろうと思う。それでも、あそこに小倉昭和館がある、北九州に小倉昭和館があるっていうことの意義みたいなものを僕らは信じているし、火災前もお客様が小倉昭和館を支えていた。これからも、さらにお客様に愛されて支えられる小倉昭和館ができると、僕はまたほっとするんだろうなと思っています」。上田さんは、小倉昭和館の再建を心から願う一人でもある。