JR 小倉駅から徒歩 8 分、北九州の台所「旦過市場」の傍に創業 80 年を越える 映画館「小倉昭和館」はある。地元の人に今も愛され続けている、北九州に唯一残った地域密着の映画館だ。平成に入ると大型のシネコンが台頭し、赤字続きとなった経営を立て直そうと、3 代目の館主を務める樋口さんはさまざまな取り組みを行った。映画館の枠にとらわれない樋口さんの企画は話題を呼び、経営も回復の兆しが見えていた。2022 年 8 月、北九州の旦過市場で火事が起きたというニュースが全国に放送された。この火事で「小倉昭和館」は全焼。コロナ禍を必死で乗り越えてきた矢先の出来事である。本企画は小倉昭和館の再建を願い、また多くの人に小倉昭和館や現在の映画界の一面を知っていただく機会となることを願って連載をスタートすることになった。今回は「わたしは劇場が沸く瞬間を想って、今までやってきました」と力強く語る館主・樋口さんにコロナ禍以前までの「小倉昭和館」について話を伺った。
映画の街、北九州に“映画館の娘”として生まれて
コロナ禍で苦境に立ち向かう小さな映画館の物語『映画の街・北九州』。たった 10 分のストーリーに俳優・光石研演じる館主賢一の哀愁と、苦境にも決して諦めない強い想いを描いている。
この映画の舞台となったのが「小倉昭和館」だ。現在 3 代目を務める館主の樋口さんは、映画の舞台となる話が上がったときは「うちでいいのかしら」と謙遜する気持ちもあった。だが、映画館が焼失してしまった今「撮ってもらっていて本当に良かった。事務所の私の席に光石さんが座っています」と嬉しそうに語る。
北九州出身の光石研さんには思い入れも強い。小倉昭和館は、樋口さんの祖父が昭和 14 年に創業した。娯楽の少ない時代に「街の人々の喜ぶ顔が見たい」と芝居小屋と映画館を作ったのだ。樋口さんの父が 2 代目となり、全盛期は全部で 4 館の映画館を経営。しかし、良い時代は⻑く続かなかった。テレビの普及やシネコンの登場などで経営は暗転。1960 年代に 113 館あったこの街の映画館は次第に淘汰されていき、残ったのは小倉昭和館だけとなった。
樋口さんが映画館を継いだのは、2011 年。映画館の娘として生まれ、家の隣に映画館があり、幼い頃から毎日映画を見て育った。しかし、当時は映画館を継ぐとは夢にも思っていなかったという。
「来場されるお客さまも少なく赤字続きだったのて、(小倉昭和館を)閉めようと思って館主に就任しました。祖父が作って、2代目か継承して一生懸命守ってきた映画館を何もわからない3代目が帰って来て潰したというふうにしたかったんです。閉める役目は私にしかできないと思って帰ってきました。」
館主に就任したときは赤字も大きく、映画館の雰囲気も淀んでいて暗い。お客さまが一桁の日もあり、厳しさを感じていた。
そんな中でも、お客さまからいろいろなご意見をいただいた。「なるほど!」と思うこともあり、いろいろ変えるべき点を変えてから閉めようと思うようになる。閉めるにしても、ちゃんとした形で閉めないといけないと気持ちが芽生え始めたのだ。
憧れの高倉健さんの存在も大きかった。健さんが撮影で北九州を訪れた際、エキストラとして撮影に参加したことがある。北九州での撮影に合わせて、小倉昭和館でも高倉健特集を上映していた。健さんにそれを伝えると「知っていますよ」と思いがけない言葉が返ってくる。小さな映画館での上映を知っていてくれたのだ。
その後ファンレターを送ると、気持ちのこもった手紙が返ってきた。送ったファンレターには、家業に戻ったばかりの樋口さんの悩みも綴っている。健さんの、丁寧に言葉を選んだ文章には、樋口さんと小倉昭和館を気遣う温かさがあった。読んでいるうちに、胸が熱くなるのを感じた。「健さんのお手紙を読んで、館主をやる覚悟を決めたんです」。ここから、樋口さんは次々に新しい取り組みを始めていく。
原動力は、お客さまが喜んでくれること
「映画館はもちろん映画を観る場所であるけれども、それだけでは成り立っていかないと思います。映画館は映画を観る場というだけではなくて、私は映画館に一歩入っていただいたときから、観る前から、ワクワクしていただいたり、居心地の良さを感じていただいたりする場所だと思っています。」
樋口さんが始めに取り組んだのはスタッフ教育。スタッフも劇場の一部。マニュアルを作り、お客さまをいつも気持ちよく迎えられる状態にした。小倉昭和館を選んで来ていただいているお客さまを想い、映画館の雰囲気づくりを心掛けた。
「小倉昭和館のスタッフはお客さまの笑顔を励みに、と思えるような人じゃないと務まらないと考えています。私はいつも、お客様に助けられ、支えて頂いていると感謝しています。イベントなど準備が大変でも終わったときにお客さまが楽しかったと言ってくださる一言に報われるんです。だからそう思えない人はいくら映画好きでも映画館の仕事に向いていないと思います。」
次に考えたのは、映画のプラスアルファとなる企画だ。映画は作品が勝負。例えば監督や出演者らは、映画の世界観を伝える。だから映画館は、その世界観を伝えるためのプラスアルファが重要だと考えている。
「例えば映画『あん』、作品中にたびたびどら焼きが出てくるんです。この映画を観たら、絶対にどら焼きを食べたくなると思って、スーパーで売っているものじゃなくって、創業 100 年の老舗からどら焼きを仕入れてきて、映画を観たあと食べていただきました。また『ラ・ラ・ランド』を上映したときには、ダンサーの方たちに来てもらって映画のあとに踊ってもらいました。」
ダンサーが客席にお客さまを装ってあらかじめ座っていて、映画が終わるといきなり踊り出す。フラッシュモブだ。客席が沸きあがる。樋口さんの口からは、聞いているだけで胸が弾むような企画が次々と出てきた。
他にも、俳優が北九州にロケに来るタイミングに特集を企画した。大杉漣さんがロケに来た時には「大杉漣特集」を組み、お越し頂いた。また平成中村座が小倉で開催された時には、中村勘三郎さんと勘九郎さんの親子それぞれの主演作を上映して、勘九郎さんと平山秀幸監督のシネマトークショウを行い、満員札止めだった。
お客さまが戻ってきたという手応えを感じ始めた。“小倉昭和館に行くとなにかワクワクすることがある”。そう思ってもらえるようになったのだ。
赤字続きだった経営は、コロナ前にトントンになるまでに回復した。閉めるつもりで継いだはずなのに、ここまでやれたのは「お客さまと接したこと」が大きい。お客さまと接すると「まだやれることがあるんじゃないか」と思えた。一番の励みだった。
思い出深い上映作品はたくさんある。樋口さんが館主を務めるようになって、 最初に満席になったのは、⻘山真治監督の『共喰い』だった。この作品も光石研さんが主演、原作は芥川賞を受賞した田中慎弥さんだ。田中さんは、小倉昭和館に 10 年以上も通っていたという。田中さんに直接「ぜひ小倉昭和館で上映したい」と申し出ると快諾してくれた。上映は立ち見も入り大盛況、札止めを記録した。
片渕須直監督の『この世界の片隅に』を上映したときは、客席から拍手が起こった。小倉昭和館では、拍手が起こることはよくあるという。片渕監督に来てもらったときは、戦時中の食材を入れたお弁当を用意した。
樋口さんの大好きな映画『マダム・イン・ニューヨーク』では、インドのお菓子「ラドゥ」がでてくる。「日本ではほとんど知られていない、ラドゥってどんなものだろうと思ったので、インド料理店をまわって教えてもらいました。そして『マダム・イン・ニューヨーク』を上映したときにラドゥを映画館で販売しました。」
小倉昭和館に足を運んでくれるお客様を喜ばせよう、楽しませようという樋口さんの想いが伝わってきた。
小倉昭和館は“この街”の映画館であるという自負
小倉昭和館は最新作ではなく、アンコール上映や話題の作品、スタッフのおすすめを上映している。鑑賞料金 1200 円で 2 本立てだ。
「この街のイベント、例えば芸術劇場のお芝居だとか文学館さん特別展示会で行う展示にあわせて、企画することもあります。例えばフィンランド展をやっているときは「フィンランド映画特集」をするなどです。母の日、父の日はそれにちなんだ映画を上映。必ず欠かせないのは終戦記念日に戦争や戦後に関する映画の特集は1ヶ月ぐらいかけてずっとやってきました。」
街との一体感がある。だからこそ地元の人に愛されているのだ。
樋口さんは、客席で自ら売り子をしながらお客さまとコミュニケーションをとっている。そこで作品の紹介や次のイベントの案内もする。「売り物が足りなくなってきたら、劇場の中からロビーの売店に『何か持ってきてー!』と叫ぶんです」と楽しそうに話す。お客さまがよく買うアイスの好みのフレーバーを覚えていたり、再会を喜んで抱き合ったり、お客さまとの距離が近いのだ。
「私は劇場が沸く瞬間を思って今までやってきたんです。私は映画館の娘なので小さい頃から映画の最盛期を見てきました。客席は満員、お客さまは拍手したり、もう笑ったり泣いたりね、歌ったりもしている姿も見てきました。笑うところは笑う。泣くところは泣く。映画館って全然知らない他人同士が、その感動を 共有する場だと思います。」
どんなときもお客さまの方を向いてやってきた樋口さん。「(小倉昭和館は)私の全て。子供でもあり、親でもあると思います。私は小倉昭和館に包み込まれているという感じがしたのでやっぱり映画館が守ってくれていると思っています。」
「小倉昭和館は人と人とのご縁に支えられた映画館だと思います。火災の後でもお客さまや関係者は私よりも泣いてくれるんです。みんなが私より先に泣いてくれるので、私は泣けないですね。」
火事から半年後、小倉昭和館の再建を報告する文書が小倉昭和館のホームページに掲載された。再建するまでの期間も、会場を借りて上映を続けている。
小倉昭和館の再建が決定しました。2023年12月にオープンの予定です。そして再建に向け小倉昭和館主催のクラウドファンディングが始まりました。ジーンシアターはこの活動を支援していきます。以下のバナーをクリックするとクラウドファンディングページに遷移します。
小倉昭和館 館主 樋口 智巳
1960年北九州市小倉に映画館の娘として生まれる。青山学院女子短期大学卒業後、JR関連、講座イベント企画の仕事に従事し、その後小倉昭和館創業70年を機に家業に戻り三代目館主となる。デジタル上映は元より「高倉健特集」を始めとした35mmフィルムの上映も存続。映画監督・俳優・作家・スポーツ選手などを招いてのトークイベントや生演奏・合唱、オールナイト上映なども行っていた。また地元企業や行政などとの連携イベントにも積極的に取り組んでおり、映画館を貸館として各団体や企業などに開放することも進めていた。創業83年を前に2022年8月の旦過地区大火災で焼失するが、現在2023年12月再開を目標に元の場所での再建に励んでいる。